映像を、暮らしの中にどう置くか。
私たちは、不動産をはじめ、住まいやライフスタイルに関わる仕事をしてきました。
住まいを考えるということは、建物や間取りだけを考えることではありません。
そこで人がどう過ごすのか。
どこに座り、何を見て、何を聞き、どんな時間を過ごすのか。
住まいとは、人の暮らしそのものです。
だからホームシアターを考え始めたときも、最初の問いは、どのプロジェクターを使うか、どのスピーカーを置くかではありませんでした。
いま、人は住まいの中で、
映像とどのように関わっているのだろう。
そこから考え始めました。
映画を観る。
テレビを見る。
YouTubeを見る。
ゲームをする。
映像は今でも、暮らしの中にある大きなエンターテインメントです。
むしろ、かつてよりはるかに身近になりました。
一方で、人と映像との関わり方は大きく変わっています。
映画を二時間、じっくり観ることもある。
テレビを見ながらスマートフォンを触ることもある。
誰かが見ている映像を、ときどき横から見ることもある。
仕事や読書をしながら、音だけを感じていることもある。
変わったのは、映像の種類だけではありません。
人と映像との関わり方そのものが、多様になった。
この点を、私たちはとても重要だと考えています。
映像は変わった。
では、リビングはどうだろう。
かつてテレビは、リビングの明確な中心でした。
テレビがあり、その正面にソファがある。
人が並んで座り、同じ方向を向いて、同じ番組を見る。
その時代の暮らしには、とても合理的な空間でした。
テレビは大きくなった。
画質も良くなった。
サブスクリプションもYouTubeもゲームも、その一枚の画面に入った。
けれど空間としては、大きな画面を置き、その正面に大きなソファを置く。
その関係だけが、そのまま残っています。
関わり方は多様になったのに、
人と映像との空間的な関係だけが、
一律のまま置き去りになっている。
私たちは、そこに違和感を持ちました。
リビングシアター主義とは何か。
リビングシアター主義は、映像のために暮らしを変えることではありません。
美しい暮らしをつくるために、映像をリビングから消してしまうことでもありません。
映像を、暮らしの中にきちんと位置づける。
それが、一番根本にある考え方です。
そこから考えていくと、人と映像との関係には、二つの軸があります。
どちらにも、グラデーションがある。
そして、そのグラデーションを受け止められるかどうかを決めるのが、空間です。
時間には、グラデーションがある。
映画を観ている時間だけが、リビングシアターではありません。
スクリーンを降ろし、大きな映像に没入する時間がある。
テレビを気軽に見る時間がある。
音楽だけを聴く時間もある。
そして一日の中には、何も映していない時間がたくさんあります。
むしろ、映像を観ていない時間の方が長い。
だから私たちは、映像を観ている時間だけでなく、観ていない時間まで設計します。
スクリーンを使うときには、映像に深く入り込める。
使わないときには、その存在がリビングを支配しない。
テレビも、スピーカーも、プロジェクターも、単独の機器としてではなく、家具や照明、素材との関係の中で考える。
映像が消えたときにも、一つのリビングとして成立している。
映画を観ていない時間まで、美しく。
これは、機器を隠すというだけの話ではありません。
ホームシアターを、映画を観ている二時間だけの設備にしない。
そこで過ごすすべての時間を、リビングの一部として成立させる。
それが、私たちの原点です。
人にも、グラデーションがある。
同じ空間にいる人が、全員同じように映像と関わっているとは限りません。
映画に深く没入している人がいる。
テレビをなんとなく眺めている人がいる。
スマートフォンを触りながら、ときどき画面を見る人がいる。
ほとんど映像を見ず、別のことをしている人もいる。
どれかが正しくて、どれかが間違っているわけではありません。
人は、いつも映像に100%参加したいわけではない。
深く入り込みたいときもある。
少しだけ関わりたいときもある。
ほとんど関わらず、同じ空間にいるだけのときもある。
人と映像との間には、距離にも、姿勢にも、関わり方にもグラデーションがある。
ならば、リビングの側にも、その違いを受け止める余地があるべきです。
すべての人を同じ方向に向け、同じ距離から、同じ濃度で映像と関わらせる必要はありません。
人と映像との関係を一律にせず、それぞれが映像との距離を選べる居場所をつくる。
そうすることで、同じ空間にいることの自由度は、もっと高くできる。
同じものを見なくても、
同じ場所にいられる。
空間が、人と映像との距離をつくる。
時間のグラデーションも、人のグラデーションも、それ自体は空間の外にあります。
それを受け止められるかどうかを決めるのが、空間です。
内装は、空間のすべてを支える
土台になる。
壁の色、クロス、タイル、木、床材。表層は最後の仕上げではなく、家具も照明も機器も、その上に乗る土台です。ここが決まっていなければ、何を置いても揃わない。逆に土台が効いていれば、テレビもスピーカーも自然に沈みます。
家具は、居心地のいい場所をいくつつくるかを決める。
家具は、部屋を飾るために置くものではありません。椅子が一脚あれば、そこに一つ、居場所が生まれる。どこに、いくつ、どちらを向けてつくるのか。居場所の数だけ、映像との距離の選択肢が増えます。
照明は、多灯分散で、時間と居場所を分ける。
一室一灯では、部屋のどこにいても同じ明るさになります。それでは、せっかくつくった居場所の違いが消えてしまう。手元を照らす光。壁を洗う光。天井に返す光。必要なところに、必要な分だけ置く。光が分かれてはじめて、映像に入り込む時間と、日常の時間も分かれます。
窓まわりは、映像と光の関係をつくる。
ブラインドやカーテンは、遮光だけの設備ではありません。日常の時間をつくるのは、むしろ透過光です。生地やスラットを通って和らいだ光が、壁や床や家具の表情を決める。その光を確保しながら、映像のときには外光を抑えられる。窓まわりは、その両方を引き受ける場所です。
スクリーンに正対して、映画に深く入り込む場所。
少し斜めを向き、気楽に映像を楽しむ場所。
スマートフォンや本を手にしながら、ときどき画面を見る場所。
ダイニングで別のことをしながら、映像や音の気配を感じる場所。
映像を中心に人を配置するのではなく、
人それぞれの映像との関わり方から、居場所を考えます。
人と映像との関係は、映像機器だけでは決まりません。
その関係を受け止める空間全体によってつくられます。
だから私たちは、映像、音響、内装、家具、照明、窓まわりを別々のものとして考えません。
すべてを、
人がこの場所でどう過ごすのか。
という一つの問いから考えます。
美しいだけでは、
人は戻ってこない。
美しい空間は大切です。
素材を選ぶ。
家具を選ぶ。
照明を整える。
余白をつくる。
私たち自身、インテリアの美しさをとても大切にしています。
けれど、人が長く過ごす場所には、美しさだけでなく、そこで何をして過ごせるのかという理由が必要です。
写真として美しいリビングと、人が自然と長くいたくなるリビングは、同じではありません。
映像は、人がその場所で過ごす理由をつくる、とても大きなエンターテインメントです。
映像をなくせば、写真として整った空間はつくりやすくなるかもしれません。
しかし同時に、人をその場所に引きつける大きな力まで、一緒になくしてしまう。
だから私たちは、こう考えます。
映像をリビングから追い出して、
美しいインテリアをつくるのではない。
映像を、きちんとインテリアの中に戻す。
これは、テレビを再びリビングの絶対的な中心に戻すという意味ではありません。
すべての家具を画面へ向け、人を映像に従わせることでもありません。
映像の存在は認める。
しかし、人を映像に従わせない。
インテリアのために映像を消すのでもない。
映像のためにインテリアを諦めるのでもない。
映像とインテリアを対立させず、一つの暮らしの中で両方を成立させる。
そこに、リビングシアターを考える意味があります。
一つの考えを、実際の空間にしてみる。
こうしたことを、言葉だけでなく、実際の空間として確かめたい。
そのためにつくったのが、私たちのコンセプトルームです。
AV機器を並べるためのショールームではありません。
人と映像との関係を考えたリビングとは、どんな空間になるのか。
それを、一つの住空間として試す場所です。
140インチのスクリーン。
65インチのテレビ。
映画に深く没入できる映像と音響。
一方で、スクリーンを使わない時間にも、リビングとして成立するインテリア。
映像との距離や角度が異なる家具。
映像を楽しむための光と、日常を過ごすための光。
スクリーンやテレビ、スピーカーだけが浮き上がらない内装。
日常の採光と、映像のための遮光を両立させる窓まわり。
これまで考えてきたことを、一つの空間の中に重ねました。
この部屋で過ごして、
見えてきたこと。
ここからは、私個人の実感です。
この部屋は自宅ではありません。
あくまで、コンセプトルームとしてつくったものです。私には別に自宅があります。
ところが、完成後にここで過ごすうちに、気づけばこの部屋にいる時間が長くなっていました。
映画を観るためだけではありません。
テレビを見ることもある。
音楽を聴くこともある。
仕事をすることもある。
何となく椅子に座って過ごすこともある。
そこで、設計しているときにはまだ言葉にしきれていなかったことが、感覚として見えてきました。
居心地をつくっていたのは、映像そのものの魅力だけではない。
映像との距離を、自分で選べることでした。
映画を観たいときには、映像に近づいて深く入り込める。
少しだけ付き合いたいときには、少し距離を取れる。
映像とは関係なく過ごしたいときには、ただその空間にいられる。
そして、そのときの自分に合った椅子がある。
光がある。
空間がある。
映像には、人をその場所へ引きつける力がある。
けれど、その引力との距離は、
一つでなくていい。
理屈として考えてきたことが、この部屋で過ごすことで、実感に変わりました。
リビングシアター主義
映画を観ていない時間まで、美しく。
同じものを見なくても、
同じ場所にいられる。
この二つは、別々のコンセプトではありません。
どちらも、映像を暮らしの中にきちんと位置づけるという、一つの考えから生まれています。
観る時間と、観ない時間を分断しない。
見る人と、見ない人を分断しない。
映像と、内装、家具、照明、窓まわりを分断しない。
ホームシアターと暮らしを、別々のものとして考えない。
人と映像との関係そのものを、時間と空間を含めて、住まいの中でもう一度考える。
それが、私たちの考えるリビングシアター主義です。
この考え方でつくった空間 CASE 01 を見る